僕は海が好きだ。
こうして陽が今にも沈みそうな真っ赤と紫が混ざりあって溶けていくような空も好きだ。この色はいつか行ったバーに行った時に飲んだカクテルを思わせた。僕は男の癖に酒が飲めないたちなのだが、あのカクテルは僕でもジュースのように飲めたような。そんな思い出がある。
今日目覚めてから何やら記憶喪失というか、頭の中がぐるぐるしている。とは言ってもよくあるゲームのように記憶が全く無いわけではない。覚えていることが少ないというか、何やら僕の記憶からごっそり抜けている気がするのだ。今日は幸いなことに一日人に会う予定もないから、こうして海岸を散歩していたのである。
一旦どれだけこの海岸を歩いていただろうか。こんなに美しい景色だというのに、この海岸にはスマホのカメラ音も若者たちのはしゃぎ声も聞こえない。勿体無いなあと思いながらも、この場所が僕だけの特別な場所なんだという嬉しさも感じる。
どれだけ歩いてもこの海岸の景色は変わらない。海と空はずっと続いている。そんな中、僕は波打ち際に何かが落ちているのが見えた。
夕陽の光を反射しているがキラキラとした輝きはない。あまり海や海岸に落ちているものを拾うと危ないとよく言われるが、得体の知れないものにどこか惹かれるところがある僕はその何かに近寄った。
これは、あれだ。所謂ボトルメールというやつだ。ゲームや漫画、小説等色んな創作物で遠くにいる人に手紙を届ける手段として使われるあれである。小さい頃このボトルメールに憧れて目を輝かせてはいたけど、結局周りから「それ普通に郵便でいいじゃない」って言われて悲しかったのを思い出した。
ボトルメールを宝物のように手に取って見る。中身の手紙は塩水でぐちゃぐちゃになっていてもおかしくないのに、比較的綺麗なままだ。
ガラス瓶は100均等で買えるようなごく普通のものだった。夕陽の光を閉じ込めたガラス瓶は、澄んだ美しさではないが少し曇ったような、燻んだ夕焼けの色をしていて僕は好きだ。
僕はボトルのコルクを引っこ抜き、丸まっている便箋を取り出す。水にふやけたのが乾いた感触の便箋だ。しかし不思議なことに何が書いているのかがわかる。海の中で何日漂流されていたかはわからないが、漂流されて幾分か時間が経っている割には状態がいいことに再度驚いた。
破れないように丸まった便箋をゆっくり開き中を見る。他人の手紙を盗み読みするのは気が引けるが、ボトルメールにする時点で知らない誰かに読まれることなんて前提としてあるだろう。僕は開き直り、誰のものかわからない手紙を読むことにした。
まずはこんな一生の終わり方をしてごめんなさい。だけど、もう俺はこうするしかありませんでした。
本当は何も言わずに死ぬつもりだったしそうしたいけど、もしこの手紙を見つけたらと思って書きました。
手紙とは言っても、俺の一生への恨み言を書き殴ったものだと思ってください。
手紙の出だしを見た時に僕は顔を歪ませた。これ、遺書じゃないか。しかも手紙の癖に宛名がない。
とんでもない物を拾ってしまったなと僕は後悔するが、この手紙がどう終わるかが気になるという好奇心とこの人物の末路を見届けなければならないという謎の使命感のようなものと共に、僕は手紙を読み進める。
俺の一生は幼少期に決まっていたようなものだった。物心ついた頃には、兄さんへの尊敬というか、憧れの気持ちがあった気がする。
兄さんは頭も良くて、俺や周りの人達からも優しくて愛されていた存在であると小さい頃からなんとなくわかっていた。
兄さんは僕の誇りだった。だけど同時に、僕にとって呪いの存在でもあった。
兄さん程ではないが、僕も頑張ったつもりでした。兄さんが見えないところで沢山頑張っているのを知っていたから、俺も負けないようにと頑張った。
でも、みんなが認めたのは兄さんの方だった。
父さんと母さんは俺がどれだけ頑張っていたとしても、俺には「まだこんなのじゃだめだ。もっと頑張れ」と言うだけだった。もしかしたら兄さんも言われていたかもしれないが、明らかに兄さんと俺を比べていたような言い方だったのをよく覚えている。
努力だけは一丁前にしていた俺は、学校のクラスメイトから都合のいい真面目くんといったラベリングをされていた。何か面倒ごとがあると全部俺に任されていた気がする。
兄さんはそんなことなかったのにな、なんでだろうと怒りよりも悲しみの気持ちが強かったように思えた。
でも兄さんには無くて俺にあるものが無かったわけではない気がする。絵を描くことや音楽を作ることは兄さんより上手かった気がしないこともないような。
こうして勉強はまあまあ、スポーツもまあまあ、美術や芸術関係という何の役にも立たなさそうなことだけはちょっと人並み以上にできるようになった「俺」という人間は生まれた。
これが彼の第一の恨み言か。僕はこの文章から感じられる些細な不快感を覚え、眉を顰めた。
大体なんだこいつは。誰よりも頑張っているのに認められない可哀想な自分、といったことを伝えたいのか知らないけど悲劇の主人公と言わんばかりの態度だ。こういう人間は僕は嫌いだ。
しかし気持ちもわからないことはない。比べられる対象が身内で、一番愛して欲しい両親からも比べられるというのは辛いのだろう。
ただ兄より優れていることへの執着心が強いのか、兄や他の人間へマウントを取ろうとしている部分も見え隠れしている。僕は再度不快に思って苦虫を噛み潰したように表情を歪めた。
仕方ない。手紙を読み進めることにしよう。
兄さんへの憧れと嫉妬が混ざった歪んだ感情や自分を認めてくれない両親やクラスメイトに囲まれて、俺は所謂自称進学校の高校に進学し、大学へと進学した。
自称進学校の高校には兄さんは進学せず、俺よりも上の高校に当然のように進学していた。
俺はそれに安心した。兄さんが同じコミュニティにいないことで比べられることがなくなるということに安堵したのもあるが、何より兄さんが僕よりも確かに上の人間であるという証明があったことに安心を覚えた。高校時代のことはよく覚えていない。兄さんと学校が離れたせいか、あまりストレスは感じなかった。だが相変わらず俺はガリ勉だったので、誰かと親密になることもなく高校生活は終わった。
大学受験は一番行きたかった志望校には落ちてしまったが、何とか比較的費用が少なくて済む国公立大学に進学できた。芸術系の大学に進みたいなと考えたこともあったが、好きなことで生きていくなんて夢物語を見れる訳もないし何よりそんな金があったら兄さんに使う費用になった方がいい。俺は自分にそう言い聞かせた。
続きを読んだが、最初よりは比較的マシな文章だった。
彼は自分のことを必要以上に卑下し、自分のやりたいことさえもとうに諦めている。確かに好きなことで生きることができるほど世界は甘くないかもしれない。だが彼はそのスタートにさえ立っていない。挫折さえしていないのである。
どれだけ反対されても貫き通すことが正義ではないか。一瞬そう感じたが違う。彼は貫き通すことを放棄してしまった。尊敬と嫉妬の感情の対象であった兄を勝ろうということにも限界を感じ、放棄してしまった。放棄された時点で夢や希望は消えてしまう。彼は自分が何者で、何がしたかったかをこの時にわからなくなってしまったのではないかとふと思った。
次の便箋を取り出して読み始める。便箋を手に取る度にだんだんと、彼の一生の終焉が近づいていくのを感じる。
大学に入り、親元から離れた俺は少しだけ安心感を覚えた。大学としてのランクはトップクラスとは言い難いが、初めて人生で楽しいと思えたかもしれない。
所謂俺は大学デビューというものを果たした。趣味の音楽活動やイラストを発揮することができるサークルに入り、好きだったことに打ち込んだ。勿論それで生きていけるなんて甘い妄想をすることは許されなかったが、それでも生きることへの喜びはあった。
そんな中、俺には恋人というものができた。小柄でヒナギクのような清廉な笑みをいつも浮かべていた。俺は生まれて初めて、人を好きになったのではないだろうか。
彼女は俺の理解者だった。言葉を濁して自分が今まで認められなかった感覚があると意を決して話した時には、「君は君以外の誰でもないんだから、もっと自信を持って欲しいな」と背中をポンと叩かれた。
俺は意を決して彼女に告白した。良い返事を貰った時には舞い上がるような気分で、俺らしくないが浮かれていた。
初めて好きになった人だ。俺はガラス細工を扱うように彼女を大切にしていたと思う。大学生くらいになればキスもそれ以上もとんとん拍子で進むのだが、俺にはそれが理解できなかった。
彼女は清廉潔白なままでいて欲しい。ただ隣にいてくれるだけでいい。そう思うことすらも、今思えば俺の我儘だったのかもしれない。
ある日、彼女の急に俺と会う頻度が減った。資格の勉強やバイトを頑張っているようだったから忙しいのだろうかとあまり気にもとめていなかったが、今思うとかなり不自然だった。
彼女との関係終わりは一瞬だった。俺が彼女の部屋に遊びに来ていて、彼女がキッチンで作業している時だった。いつものように寛いでいたのだが、ふと彼女の部屋に違和感を感じた。
何だかいつもと部屋の空気が違う。あまり心地よくない匂いの正体に俺は気づいた。
煙草の匂いだ。
まず、あの潔白で清楚な彼女が煙草を吸うイメージが無かった。しかし、俺が知らないだけで少々嗜んでいるのかもしれない。
俺は視線を動かして、何気なくゴミ箱の中を見てしまった。どうして見てしまったのだろう。気づいてしまったのだろう。
そこには煙草の吸い殻と、俺が一番見たくないものが捨ててあった。
どうして。どうしてこんなことに。いや、そんな訳ない。彼女はそんな人じゃない。
俺は込み上げてくる恐怖を抑えたが、彼女が他の男と一緒にいる姿が脳裏に浮かんで消えない。目を閉じて俯いていると、ピコンと彼女のスマホから通知音が鳴った。見てはいけない。だけど俺は気づいたら彼女のスマホの画面を覗き込んでいた。
「今の彼氏、いい人なんだけどね。私に全く手出さないの笑 なんか愛されてるか不安でさー」
彼女が誰かに送ったメッセージだろう。これを見て、俺の中の今まで培ってきたものが崩れると同時に納得した。ああ、今まで俺がしてきたことって無駄だった。彼女は俺なんて望んじゃいないんだ。
気がつくと俺は彼女の家を飛び出して全速力で走っていた。彼女が待ってと大きな声で俺を呼ぶのが後ろから聞こえるが、そんなものに構うことなく走り続けた。
早鐘のようになる心臓の音、ヒューヒューと浅い呼吸と夜の冷たい空気。疲れ果てて立ち止まった俺は、脳内にすっかりこびりついてしまった彼女の家であったことを思い出して嘔吐した。胃がすっからかんになるまで、胃液さえも出なくなるほどに吐いた。
胃の中のものが消え、吐瀉物の前に立っていた俺はどれだけ無様だっただろう。
声をあげて泣く元気もなく、俺はただとぼとぼと歩き始めた。
ここまで読んだ僕の手は震えていた。読んでいるうちに、何故か僕も彼と同じような経験をしているような気分になっていた。
続きを読むのが怖い。最初こそは彼の最期を見届けるなんて言ったが、何故か僕は現実を直視したくなかった。本能がこれ以上先を読むことを拒否しているのだ。しかし僕はこの手紙から目を逸らすことができず、操られてるかのように便箋を読み進めるしかできない。
俺は一体何故生きているのだろう。いや、何故ではない。生きる意味とかそんなことなんて考えていない。生まれてこなきゃよかったのだろうか。そんなことさえ考えた。
俺は一体何がしたかったのか、何者なのか。
そんな思いをつらつら吐きながら、俺はずっと見たかった景色と共に消えます。
もう二度と、生まれてきませんように。
ああ、これは。これは
「俺(僕)だったんだ」
安堵の一言だった。その一言を呟いた途端に、体が沈んでいく感覚を覚えた。
海の青と差し込む黄昏の光。俺の体は水底で腐敗し、膨張し、さぞ醜いだろうに海と夕焼けは俺を抱擁するように暖かい。
沈んでいく最中、手元の手紙とガラス瓶を抱きしめる。ああ、この手紙は遺書なんかじゃない。僕の、俺に向けての救いだった。
俺は目を閉じて、水底へと沈んでいく。死を求め、救いを求めて。
「あのさ母さん」
ノートパソコンを使った作業に没頭していた海斗は体をほぐすように伸びをしながら、台所で家事をしている母親に話しかけた。母親がなによと振り返った時の海斗の顔つきは、いつにも増して神妙に感じた。
「俺、弟欲しかったんだよなー てか、なんか弟いそうって周りからよく言われんだけどさ、母さんはもう一人作ろうとか考えなかったの? 」
しかしそんな神妙さも嘘のように海斗はニカっと笑い、一人っ子なら考えるであろうごく普通の話題を振ってきた。
「来年で大学生になるのに突然なによ。その話題あんたが小さい頃からずっと話してたけど、あんた一人を育てるので手一杯だからもう一人なんて無理よ」
母親は呆れ顔で海斗に答えた。海斗はそうかぁと答えたきり、ノートパソコンにまた目を向けた。
「俺に弟かぁ もしかしたらいたのかもなあ」
その日の夕焼けは、何もかもを受け入れ何もかもを無へ還すような、そんな茜色だった。
終